山口良忠判事 (闇米を拒否し餓死) 没後70年
以下Wikipediaより引用
山口 良忠(やまぐち よしただ、1913年11月16日 - 1947年10月11日)とは、日本の裁判官。佐賀県出身。太平洋戦争の終戦後の食糧難の時代に、闇市の闇米を拒否して食糧管理法に沿った配給食糧のみを食べ続け、栄養失調で餓死した事で知られる。
食糧管理法違反で起訴された被告人を担当し始め、配給食糧以外に違法である闇米を食べなければ生きていけないのにそれを取り締まる自分が闇米を食べていてはいけないのではないかという思いにより、1946年(昭和21年)10月初め頃から闇米を拒否するようになる。
山口は配給のほとんどを2人の子供に与え、自分は妻と共にほとんど汁だけの粥などをすすって生活した。義理の父親・親戚・友人などがその状況を見かねて食糧を送ったり、食事に招待するなどしたものの、山口はそれらも拒否した。自ら畑を耕してイモを栽培したりと栄養状況を改善する努力もしていたが、次第に栄養失調に伴う疾病が身体に現れてきた。しかし、自分が職を離れたら「担当の被告人100人をいつまでも未決でいさせなければならない」ことになると療養も拒否した。そして、1947年(昭和22年)8月27日に地裁の階段で倒れ、9月1日に最後の判決を書いたあと、やっと故郷の白石町で療養する事となる。同年10月11日、栄養失調に伴う肺浸潤(初期の肺結核)のため33歳で死去した。
以上引用終わり 山口良忠 - Wikipedia
8月15日は
戦争で片目を失った父と一緒に
戦没者追悼式のTV中継に合わせ
黙祷をささげる
6日・9日・15日 祈りの8月
山口判事の事をいつどの様な経緯で知ったか記憶にない。
時々我が家に来られていた「ぼなんさん」が
山口判事の弟さんであった事を知ったのは
大学生の時だったと思う
温厚で博識、穏やかなお顔のぼなんさんと
私が勝手に想像していた壮絶な山口判事とが結びつかなかった
法律や政治に携わる方々は「山口判事」の存在を忘れないで欲しい